大長編ドラえもんのみどころの一つは、短編で見る限りでは万能とも思えるドラえもんのひみつ道具が、大長編の長丁場ともなると、往々にして「道具の限界」を露呈させてしまうところです。一番分かりやすい例として、第1作目の「のび太の恐竜」を見てみると、のび太たちが白亜期の時代にタイムスリップしたとたん、早速タイムマシンが故障して元の時代に戻れなくなってしまうし、タケコプターは長時間連続使用するとバッテリーがあがってしまうので、こまめに休ませながら移動しないとダメ、という状況に陥ってしまいます。
つまり、ドラえもんの道具と言えども、所詮は22世紀のテクノロジーが生んだ「機械」に過ぎないので、現代の私たちが使っている電子レンジやビデオデッキと同じように故障もするし、仕様書に書いてあるスペック以上の機能は発揮できない、ということなのです。それが「人間らしさ」ならぬ「機械らしさ」ということで、皮肉や教訓も含めてありのまま描いているのだと思います。
また、どこがどう故障したのか、とか何故連続運転できないのか、という理由を子供だましではなく、きちんと説明している点が、ドラえもんが「科学まんが」だと言えるゆえんではないでしょうか?この辺りの描写は、エンジニア的な視点がなければ出てこない発想だからです。
さて、「どこでもドア」と言えばドラえもんの道具の中でも定番中の定番で、「一瞬でどこへでも行ける」という夢のような道具の象徴ですが、この「どこでもドア」にもいろいろと限界や制限があります。「のび太の恐竜」では、「どこでもドア」に白亜期の時代の地図がインプットされていないから使えない、「のび太の宇宙開拓史」で、のび太が遠く離れた星に行きたい、と言ったらドラえもんに「どこでもドアは10光年以内の星じゃないと届かない」と言われてしまいます。
つまり、「どこでもドア」はどこでも行けるように見えて、実は移動できる射程距離が決まっているし、カーナビと同じようにあらかじめマッピングされた地理情報がないと正確な移動はできないようなのです。大長編では、このようにして毎度のように「道具の限界」に行き当たってしまうので、結局はそれを使う人間が自分の力でなんとかするしかない、ということになって、努力したり団結したりして困難を乗り切ろうとするのび太たちの人間ドラマへと発展するのです。
同時に、ひとつひとつの道具に限界があっても、それらの道具を組み合わせることで無限の可能性を生み出すことができる、といった側面も作中では示唆されています。「のび太の魔界大冒険」では、絶体絶命の危機にみまわれ、途方にくれてしまったドラえもんの元に、未来から賢い妹のドラミちゃんが駆けつけてくれて、複数の道具を組み合わせた見事な「コンボ技」であっという間に状況を打破してしまいます。
でも、これは大長編ドラえもんにとっては、この回だけの禁じ手。いつもトラブルに合うたびに「何かないか何かないか」と慌ててポケットの中を引っかき回しているドジなドラえもんの姿こそが、テクノロジーをそれほど使いこなせていない私たち人間の投影だからです。毎回道具だけでそつなく解決してしまったら、観ていても面白くないに違いありません。
風のまにまに号




以前、DWの記事でトラックバックさせていただいたtsuyoshimiと申します。
すごく興味深い話でした。
感心させられました。ドラえもんの映画ってこういう解釈もあるのだと。
機械の限界、コンボ、そして、機械を使いこなせていないドラえもんが現代人の投影。
子を持つ親としてはたいへん興味深いはなしでした。
tsuyoshimiさん、コメントありがとうございます。
私も小学生のころに、学校の先生が授業中にドラえもんの映画を見せてくれたりして面白さに目覚めたので、子供のときに観て欲しい作品だと思います。
ぜひお子さんに見せてあげてくださいね。