筒井康隆のジュブナイル小説「愛のひだりがわ」を読みました。母に先立たれた12歳の少女・愛は、行方知れずの父親を探すため一人旅に出る決心をします。しかし、世の中は今の日本よりもさらに行きづらく、荒廃して廃墟のようになった街には、争いに倒れた人が溢れ、金持ちは強盗団の襲撃におびえて暮らす毎日・・。そんな危険な愛の旅路には、野良犬のデンをはじめ、ちょっと不思議な『ご隠居さん』や、クラスメートのサトルなど、必ず愛のかたわらに寄り添い、守ってくれる存在が現れます。しかし、行く先々で波乱万丈の展開が待ち受け、愛の元から親しい人々が去っていくこともしばしば・・。そんな過酷な運命に翻弄されながらも、世の中の善悪を学び、強く生きる術を身につけていく愛の姿は、胸を打つものがありますが、同時にこの小説が単なるジュブナイルではなく、現代を生きる大人たちへ向けたメッセージであることも、同時に伝わってくるのでした。なぜなら、この作品で描かれているような残酷な世界は、日頃ニュースの画面に流れるありふれた日常とほんの紙一重の、ごくごく近い未来予想図だからです。
筒井康隆のジュブナイル作品というと、「時をかける少女」や「わたしのグランパ」などが引き合いに出されると思いますが、純真無垢な視点で描かれたロードムービー的な作品という意味では、「旅のラゴス」の雰囲気によく似ていると思いました。また、超越的な力を持つ主人公が、その美貌と才能ゆえに周囲から疎まれ逃避行を繰り広げるという点では、「七瀬ふたたび」を彷彿させるところがあります。
本作品の主人公・愛は、はっきりと超能力者として描かれているわけではありませんが、幼い頃に負った傷が原因で左手が不自由になったのをきっかけに、常に『ひだりがわ』を守ってくれる協力者が現れるようになったし、時には亡き母の亡霊がゴーストとして左側に出現することもあります。さらに、犬の言葉を理解し会話できることから、やがて野良犬の集団を率いて『野犬の女王』として広く知られるようになるのですが、本人がこの能力そのものを乱用するのではなく、あくまでその結果として得られた社会的な名声を足がかりにしていくところが、超能力小説とは一線を画する点ではないでしょうか?
前半では、追っ手や悪人からただ逃げ惑うばかりだった主人公が、終盤で繰り広げる逆転劇は実に痛快なのですが、単純な意味での『復讐』を超えた、社会的な仕組みに乗っ取った上での制裁を実行する手段が事細かに描写されています。作中に登場する「株式会社変更登記の申請」だの、「法人税法違反」だのといった用語は、決して子供が読んで易しいものではないと思うのですが、終局的な滅びの美しさを描いた「七瀬ふたたび」と違って、建設的に未来を勝ち取ろうとするクライマックスは、読んでいて清清しいものを感じました。
愛は最初、不幸な境遇に置かれながらも、父を探し出せばなんとかなる、父に再会することができれば幸福な暮らしを取り戻すことができるのだ、と夢を見ます。しかし、これでは「母をたずねて三千里」というより、最後には王子様が現れて、全てを思いどおりに叶えてくれる、というシンデレラさながらのメルヘンチックな幻想に他なりません。筒井康隆が描く少女の成長物語は、もっと過酷な運命に主人公を差し向け、結局は自分一人の力で生きていくしかないのだということを悟らせるのです。愛の協力者として表れる人々も、主婦や老人など社会的に弱い立場の者が多く、そろって家族から虐げられている点も象徴的です。
この小説を一度読んでしまえば、「愛のひだりがわ」というタイトルの意味は、主人公・愛の傍らに代わる代わる現れる協力者のことだとすぐに分かるのですが、最初書店で見かけたときは、一体どういう意味だろうか?と首をかしげたものです。このタイトルを言葉どおりの意味として捉えるとどうでしょうか?ますます世知辛く、生きづらくなっていく現代の世の中で、それでも『愛』を持って生きていくには何が必要なのか?そんな作者からのメッセージと感じて、色々と答えを考えてはいるのですが、これってなかなか難しい命題ですよね・・。
風のまにまに号

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